◇ ◇
今まで二人で使っていた音咲高校軽音部の部室に真新しい制服の一年生の姿がある。
「待ってたよつきねちゃん!」
鈴代ここねと桜ヶ丘まねにとって、この瞬間、感慨もひとしおだった。
入学式翌日につきねが軽音部に入部届を持ってきてくれたのだ。仮入部ではなく正式なもの
なので、きっとつきねは最初の新一年生の部員に違いない。
桜の季節はもう終わりだけれど、今まで以上に楽しくなるという予感がここねとまね——そしてつきねの胸の内に芽吹いていた。
「これで軽音部を本格始動できるね〜」
「うん! まずは本日をつきね入部記念日とする!」
「ここねちゃんナイスアイデア!」
「もう……おおげさだよ、二人とも。記念日とかそういうのいいから。他の人が入部してきた時……恥ずかしいし」
つきねが少し困ったように返事をする。
「私的には、つきねがいてくれればそれだけでいいんだけどねー」
「その気持ちも分かるけど、部員が多いほうが文化祭でステージを使う時間多くもらえるよ、きっと」
「……はっ!? それはたくさんほしいね、新入部員!」
「おねーちゃん……現金」
「まあまあ、つきねちゃん。部長としては正しいから。それじゃ、部室を出て部活動勧誘でもする?」
「ごめん、それも大事だけど……つきねとこれからどんな曲やりたいとか、そういう話したい!」
まねの提案に前言を翻して申し訳ない気はしたが、ここねとしては譲れない。
「いいと思うよー。二人が歌いたいってのがないと、部活できないし」
まだ決まってないことはたくさんあるけど、ここねはこれだけは胸を張って言える。
「安心してよ、まね。歌いたい歌なんていっぱいあるから! ね、つきね?」
「そうだね。つきねもおねーちゃんと歌ってみたい曲色々ある、かな?」
「とりあえずリストアップしてそれから決めよう」
つきねと曲名を言い合うだけで、ここねはワクワクした。
互いにとって意外な選曲だったり、二人とも気に入っている歌だったり。
「この曲の次には、この曲が歌いたい」というような曲同士の世界観を意識するようなつきねの提案は、ここねだけだったらきっと思いつかないアイデアだったり。
結局、ここねとつきねは最初にどの曲を歌ってみるか決められなかったけれど、充実した時間だった。
(これから毎日学校でつきねと過ごせる。一緒に音楽ができるんだ!)
一年前に創部した時以上の一歩は踏み出せたと、ここねは密かに確信していた。
◇ ◇
ここねが再びつきねと登校するようになってから、数日が過ぎた。
四時間目の終了を告げるチャイムが鳴り終わり、ここねはまねと部室で昼食を食べようとお弁当の入った巾着を手に取った。
本当はつきねとも一緒に食べたいが、入学したてのこの時期はクラスメートと仲良くなるのも大事なことなので、ここねは我慢している。
「あ、自販機でなんか飲みもの買ってこう」
「いいよー」
そんなことを話しながらここねたちが廊下に出ると、担任教師が小走りで近づいてくるところだった。
「鈴代さん……」
息切れ気味なのか、先生の声は少し震えている。ただ、ここねには声をかけられる心当たりがない。
「どうしたんですか? 先生」
「さきほど妹さんが授業中倒れました。今は保健室で休んでいますが……」
ここねは驚いて、目を見開いた。
「——っ!! まね……これ、お願い!」
ここねはお弁当をまねに押し付けると駆け出していた。
「つきね……っ!」
保健室に駆け込むと、ここねは思わず妹の名前を呼ぶ。
けれど、つきねに反応はなく、養護教諭からの注意もなかった。
養護教諭は険しい表情で、ただ冷静な面持ちで教えてくれた。
「今、つきねさんは意識がありません」
「……そ、そんな!?」
「さきほど救急車の要請と親御さんへの連絡をしました。急な発熱……それも40℃近い高温で意識がないことから楽観しないほうがいいと判断しました」
ここねは言葉を失う。
遠くから救急車のサイレンの音が聞こえてくる。その音はここねの不安と呼応するように大きくなる。
つきねの手を握ることしか、ここねにはできなかった。
搬送された病院ですぐ母と合流して、夕方には父もやってきた。
病室で心電図やら点滴をつけられた妹をただただ見守るしかできなくて、ここねは自分の手を握りしめる。
(神様っ……お願い。つきねを——)
家族三人でつきねの意識が戻ることだけを祈る。
けれど、その日つきねが目を覚ますことはなかった。
翌日以降もつきねの容態は好転しなかった。
ここねは学校で授業を受けていても、入院したつきねの事ばかり考えていた。
放課後、つきねが入院している病院に行くという日が何日も続いた。
いつになったら再びつきねの声が聞けるだろう。
どうしてつきねがこんな目に遭うんだろう——そんなことばかりが、ここねの頭の中をぐるぐると巡る。
今は朝から付き添っていた母には休んでいてもらい、病室でつきねと二人っきり。
「つきね……」
返事はないと分かっていても、ここねはつきねに向かって話しかけてしまう。
やめてしまえば「つきねがもう二度戻ってこないのでは?」という不安に押しつぶされそうになるからだ。
「早く起きないと、期間限定の『月見つくねバーガー』……終わっちゃうよ?」
そう語りかけ、ここねは眠っているつきねの額に滲んだ汗をそっと拭う。妹の表情が和らいだ気がした。
その寝顔を眺めていると、つきねの瞼が薄っすらと開く。視線が合った。
「おねー……ちゃん?」
か細い苦しそう声が返ってくる。
「……!! つきねつきねつきねっ!」
ここねは名前を呼びながらポロポロと涙を零していた。
「…………?」
不思議そうな顔をしているつきねが、ここねをぼんやり見返してくる。
「良かったぁ〜、良かったよぉ……」
ここねは嬉しさのあまり最愛の妹をしばらく抱きしめ続けた。
つきねが目覚めたことを母や医師に伝えるのを忘れるほどに。
◇ ◇
「つきねちゃん、ほんと目が覚めてよかったね」
放課後、この日何度目になるか分からないつきねの話題をしながら、ここねたちは部室へ向かう廊下を歩く。
この先にある階段を上らないと、軽音部の部室には行けない。
「まだ時々高めの熱が出るせいで、もう少し入院しないといけないみたいだけど」 つきねの意識は回復したものの、高熱の原因は分からないままで退院の目途は立たない。
両親から精密検査の結果を教えてもらっても結局変わらなかった。
「だからさ、まね今日もなんだけど……」
ここねの足が止まり、続けようとした言葉も止まってしまう。
「お見舞い行きたいんだよね?」
問いかけにここねが頷くと、まねはポンと自分の胸を叩いた。
「大丈夫、新入部員の勧誘は私に任せて。去年の文化祭で二人が歌った時の動画があれば、結構話聞いてもらえるし!」
まねがいつの間にかYouTubeにアップしていた動画は、結構な再生数になっていて時々違うクラスの子にも「動画見たよー」と言ってもらえたりする。
「ごめん、ありがとう。この埋め合わせは絶対するから」
「いいからいいから。つきねちゃんが待ってるよ」
「うん、また明日ね」
ここねは親友から後押しされて、妹の待つ病院に急いだ。
ここねはつきねの病室にある洗面台で花瓶の水を変える。
つきねが眠っているうちにできることをやるしかない。
担当の看護師が言うには昼過ぎにまたひどい発熱があったらしく、確かに寝ているつきねの顔色はあまり良くなかった。
(今日はつきねと話ができると思ったんだけどなぁ……)
つきねの気が少しでもまぎれてくれればと思いながら、ここねは新しく買ってきた花を花瓶に挿す。
「おねーちゃん……今日も来てくれたんだ」
その元気のない声に振り返ると、つきねが身体を起こそうとしていた。
ここねはすぐフォローに駆け寄る。
「……お花もありがとね。来たなら起こしてくれればよかったのに」
「何言ってんの。今はいっぱい寝て体力を回復させるときだよ。今は大丈夫なの?看護師さん呼ぶ?」
「たぶん……平気。熱も下がったと思う。あ、でも……ちょっと喉渇いたかも」
「ちょっと待っててー」
ここねはプラスチック製のマグカップに水を注ぐと、ストロー付きの蓋を閉める。
「ごめんね……おねーちゃん」
マグカップを受け取ったつきねがそんなことを言う。
「気にしないの。おねーちゃんに任せちゃって」
こんな時なんだから思いっきり甘えてもらっても構わないのに、というのがここねの本心だ。
「そうじゃなくて……せっかく軽音部入ったのに全然活動できないから」
ここねはそっとつきねの頭を撫でた。
「つきねが元気になってくれれば、それでいいから。私たちの歌も夢も逃げないから全然大丈夫! 逃げてもすぐ捕まえちゃえばいいんだよ」
つきねは分かってくれたのか小さく頷いて、水をゆっくり飲み始める。
ガラス窓の外を見ると、陽は落ちていて暗くなっていた。
もう少しで面会時間も終わる。
つきねとはもっと一緒にいたいけれど、あまり遅くなると両親がここねの心配をするのだ。
「私、そろそろ帰るね。また明日来るから」
「うん。おねーちゃんもあまり無理しないでね」
「わかってるー。一応つきねが起きたって看護師さんに言っとくね」
ここねは音咲高校指定のバッグを肩にかけると、つきねの個室を後にした。
◇ ◇
姉がそっと閉じたドアをつきねはしばらくぼんやりと見ていた。
——つきねが元気になってくれれば、それでいいから。
自ずと先ほどかけられた言葉を、つきねは思い出していた。
その優しさに胸が苦しくなる。
(本当は……一緒に歌の練習をしたり、まね先輩に協力してもらって歌の動画を作りたいに決まってるよ……)
ここねはほとんど毎日お見舞いに来てくれる。
すごく心配をかけてしまっている。
どうしてこんな病にかかってしまったのだろうか。
高校生になったら、ここねやまねと軽音部の活動ができると思っていたのに。
病院で過ごしているという思わぬ高校生活の始まりに、つきねはため息をつきそうになる。
「…………」
けれど、別れ際見たここねの顔がよぎり、ゆっくり顔を上げる。
「明日はおねーちゃんと色々話がしたいな」
つきねはスマホを手に取ると、ブックマークに触れてYouTubeにアクセスする。
桜ヶ丘まねが作って管理しているチャンネルだ。
つきねとここねが歌っている動画の再生数を見てみると、以前に見た時より増えている。
初めて動画の存在を知らされた時は驚いたし、なんだか恥ずかしかったのをつきねはよく覚えていた。
「まね先輩も心配してるだろうなぁ。早く元気にならないと」
しかし——
つきねの意思とは裏腹に、なかなか病状は回復に向かわなかった。
深夜の空調の効いた病室で、つきねはもう何度目だが分からない高熱に苛まれていた。
「はぁ……はぁ……」
身体が熱い。汗で髪がまとわりつく不快感。息も苦しい。
荒い呼吸に合わせて、つきねの胸が上下する。
(苦しい……このまま死んじゃうの、かな?)
自分の熱さに蝕まれるような感覚から逃れたくて、つきねは窓のほうに寝返りを打つ。
「うぅ……」
瞼を開けると、視界の隅に月があった。半月が少し膨らんだような不格好な月だ。
眺めていても、身体の気怠さが紛れるわけでもない。
そんな印象もつきねの八つ当たりのようなものだ。
つきねはもう一度身体を動かし、天井を見つめる。
「おねーちゃん……」
スマホのロックを解除して、つきねは動画のブックマークに触れた。
ミュートのまま去年の文化祭で歌っている様子を眺める。
今にして思えば大胆なことをしたものだと、つきねはぼんやり考える。
それでも、あの時の気持ちが蘇ってくる。
楽しかった初めてのライブ。
もっともっと歌いたいとここねは感想を口にしていたし、つきね自身も同じ気持ちだったのだ。
「元気になって……おねーちゃんと……」
歌いたい。
姉の夢が叶うようにその一番近くで力になりたい。
動画を見ていると音を消していても、ここねとの二重唱が、聴こえてくる気がする
——つきねの弱気を払ってくれる。
つきねは額の汗を手で拭って、瞳を閉じた。
その日。着替えなどの必要なものを準備している最中に、つきねがまた高い熱を出したと病院から家に連絡があった。
ここねが母と病室に着いた時はすでに医者による処置は済んでいて、つきねは少し疲れたような笑顔を向けてきた。
「大丈夫……これでも熱が出る回数は減ってるんだよ?」
「でも……」
「すぐ元気になるから……待ってて」
見舞いに来たと言っても、つきねの熱がろくに下がらないままでは話をすることは許可してもらえず、数日分の着替えと以前に二人でリストアップした曲を入れた携帯音楽プレイヤーを置いて、ここねは家に帰ってきた。
「音楽で元気になったらいいんだけど」
病気のことは医師に任せるしかないと分かっていても、ここねは強いもどかしさを感じていた。
辛そうにしているつきねのために何かしてあげたい。
けれど、ここねにできることが多くない。
(大好きな妹のためになら……何でもしてあげられるのに)
何かないだろうか。
食事をしていても、入浴をしていても、ベッドに入ってからも——ここねは考え続けた。
つきねのために。 その夜、ここねは気づかないうちに眠りに落ちていた。
◇ ◇
鈴代ここねにとって、どこか見たことのある風景。どこか違うような街並みだった。
今目の前にある、美癸恋(みきこい)中学校の校舎は、ここねの記憶の中にあるものよりも随分ときれいだ。
そこから程なくのところにあるカラオケ店も新装開店したのかと思うほどで、『オラオケ』の看板もピカピカだった。
笑顔を浮かべる二人の姉妹の姿が見える。
しかし、その顔がすぐに陰る。片方の顔が苦痛にゆがむ。
もう一つの少女が悲嘆に暮れた顔を浮かべる。そして、多くの涙と一つの命が落ちていった。
その悲劇の光景は一度きりではなかった。
見える景色が少しずつ変わっても、ここねが住む美癸恋(みきこい)町だという直感があった。
この土地に生まれた姉妹が発症する病——時によっては「死の呪い」と呼ばれる厄災に見舞われていく。
いつも呪われるのは二人の姉妹だった。ここねとつきねのような年子の姉妹。見た目そっくりな双子の姉妹。年が離れているような姉妹であっても。
呪いは多くの姉妹から平穏を、普通の生活を奪い去り、一緒にいきたいという願いを手折ってきた。
もう消えたかと思った頃に、この厄災は仲の良い姉妹を引き裂くように現れる。
少し遠くから古い映画を見せられているような不思議な幻視を、ここねは否定し拒絶したかった。
苦しむ少女の姿が一瞬つきねに重なる。
涙を流すことしかできない少女に、ここねは自分を重ねてしまう。
(こんなのって……こんなのってないよ……!!)
もう見たくないとここねが強く思っても呪いは時代を遡り続ける。
果たして何が原因なのか。
どうすればいいのか、精いっぱいあがく者。姉妹二人悲しみに暮れ、最後の時まで共に過ごす者。
姉妹のどちらかが死ぬという運命からは誰一人逃れられない。
そして、ここねは一風変わった姉妹の姿を捉えていた。
里から離れた山で暮らす姉妹だ。身に着ける衣服も着物には違いないが、ここねが見たことのあるものに比べたら簡素、言ってしまえば粗悪なものだ。
陽が落ちれば、そこには暗闇しかない。
今の美癸恋(みきこい)町の面影など露ほどもないくらい昔なのだと、ここねは想像する。
呪いのせいですでに衰弱した妹のために、食べ物を求める少女に手を差し伸べる人間は誰一人いない。
その少女が近づこうとすれば、穢れのように忌避する態度が露になる。娘に石を投げつける者さえいる。
「鬼の子」
そんな言葉をぶつける誰かの声がした。
次の瞬間には場面が切り替わり、荒屋(あばらや)で病床に伏す妹と付き添う姉の姿のみ。
「姉様……ごめんなさい。私のせいで……」
「いいの。あなたは私の妹。今ではたった一人の家族なのだから」
妹の方が熱に侵されていることは、ここねにも分かった。
鬼と呼ばれていても、二人の間には強い親愛の情が見て取れた。
しかし、妹の肉体に宿る『死』に至る呪いが、ついに姉をも蝕み始める。
「呪いさえなければ……」
妹は自らの死を望んだ。それしか姉を苦しみから救う手段がないと思って。
姉が自分を殺そうとした時、少女は笑顔を浮かべる。
最愛の妹を殺すこと。
最愛の姉に命を捧げること。
もはやそれしかできなかったのかもしれない。
姉は妹の胸を貫いた。片方の姉妹が死んでゆく——ここねが今まで見てきた悲しい最後だ。
しかし、命を失ったのは呪いを宿していた妹ではなく、妹の心臓を抉った姉の方だったのだ。
自らを弄んできた呪いから解放された時、鬼の血を引く娘は何よりも愛おしい者を喪い、だた孤独な存在になった。
◇ ◇
ココツキオリジナル小説
『月ノ心ニ音、累ナル。』
好評連載中