◇ ◇
それは鈴代ここねの原体験とも言える記憶――彼女が持つ古い想い出だ。
一体いつの頃だっただろうか。ここねとつきねは、まだ小学生にもなっていなかった。
ある夜、幼いここねとつきねに、母は寝物語を聞かせた。
「昔、この町にはね、鬼が住んでいたのよ」
「おに?」
ここねは母に尋ね返す。
つきねはここねよりもっと幼かったから、母の言葉の意味がわからず、ただきょとんとしていた。
「そう。頭に角が生えた鬼よ」と母は言う。
「にんげんをたべる、こわいおに?」
鬼は、人間を襲ったり食べたりする怖い怪物だ――ここねは絵本で見て、そう思っていた。
しかし、母は微笑んで答える。
「ううん、違うわ。この町に住んでいた鬼たちはね、人間のことをとても好きな鬼だったのよ」
母は娘たちに話し始めた。
この町に伝わる、荒唐無稽で苦痛と慈愛に満ちた悲しい物語を――。
◇ ◇
むかしむかし、京都に平安の都があった頃。
文明が発達する以前の人間にとって、怪異は今よりも遙かに身近な存在だった。
人々は日々、神仏に祈りを捧げ、死者の霊魂を祀った。
人ならざる存在は、夢物語や奇人の戯言ではなく、実体として存在していた。それらの怪異の中で、神仏と呼ばれるものは人々に利益や救いを与えたが、妖や魔物と呼ばれるものたちはただ人間を害して傷つけるばかりだった。そのため人間は妖と魔物を怖れ、時には人の中で特別な力と知識を持った者が、それらを討つこともあった。
妖と魔物がどこから現れるのかはわからない。一説によれば、当時の世界は人間たちの世界『現世(うつしよ)』と、怪異たちの世界『幽世(かくりよ)』との境目が曖昧であり、様々な怪異が人間たちの世界に訪れやすかったのだという。
それらの中でも、最も乱暴で最も多く人間に危害をもたらしたものが、『鬼』だった。
鬼はこの国の様々なところに住み着き、食糧を奪い、子供や老人を踏みつけ、若者を喰らい、女を襲った。鬼にとって人間は、ただただ搾取するだけの弱者であり、家畜以下の存在であった。
だが、とある村の周辺に住み着いた鬼は、他の鬼たちと様子が違っていたのである。
当時は日本各地に無数の武士集団があり、それらが日々争いを繰り返す戦乱の時代だった。
けれどその村には、まだ戦乱の火の手は伸びておらず、人々は比較的穏やかに日々を過ごしていた。
ところが、その平穏はある時期から、脈絡もなく崩壊する。
村近くにある山の中に、人ならざる存在――『鬼』の集団が住み始めたのだ。
人々は鬼の出現に怯えた。このままではいつ鬼が山を下りて来て、村を襲い始めるかわからない。被害が出る前に村人全員で居住地を移すべきだ、という案も出た。しかし、新たな土地を開墾することには莫大な時間と労力が必要になるし、武士同士の争いに巻き込まれない地域を新たに見つけられる保証もない。また、年老いた村人たちもいるため、移動すること自体も困難だった。
そのため目の前に危険が存在するにも関わらず、村人たちはどうすることもできず、生活を続けるしかなかった。
人々はただただ怯える日々を送り、一年が経ち、二年が過ぎる。
しかしその間、鬼が人間を襲うことは一度もなかった。
村人たちは不思議に思い始める。なぜ鬼は村を襲って来ないのか?他の村で鬼が出現した時には、例外なく蹂躙されたのに、なぜこの村だけが――?
そんなある日、一人の青年が村を訪れた。彼は高名な方術士の弟子であり、諸国を巡って修行をしているのだという。この村に鬼が出現したという噂を聞き、人々を救うために村を訪れたのだった。
村人たちは青年に懇願した。
「方士様、どうか私たちを助けてください。鬼たちを退治してください。今は鬼の奴らはおとなしくしていますが、いざ襲ってきたら、このような小さな村、ひとたまりもありません」
青年はもちろんそのつもりだったが、鬼が今まで村を襲わなかった理由がわからなかった。
「まずは私が鬼たちと話をしてみよう」
青年はそう言って、鬼たちが住む山の中へ向かった。
◇ ◇
青年は鬼の棲み家にたどり着く。彼は襲われることもなく、鬼たちに迎え入れられた。鬼たちは人間とは異なる姿をしていたが、さほど凶悪には見えなかった。
鬼の長と名乗る者が現れ、青年と話をする。
「我々は人間を襲うつもりはありません」と鬼の長が言う。
「では、何が目的なのか?」
青年が問うと、鬼の長が答える。
「私たちは人間と共に暮らしたいのです」
多くの鬼たちとは異なり、この山に住み着いた鬼たちは、人間を弱者や蹂躙する対象と見るのではなく、むしろ愛すべき素晴らしい存在だと考えていた。彼らは人間を好ましく思い、人間と共に在りたいと言うのである。
鬼たちの言葉を聞き、青年は呆気に取られて驚いた。
「お前たちのようなことを言う鬼は見たことがない。だが、鬼が人間と共に暮らすなど、難しいだろう」
「承知しています。人間は鬼を怖れていますから」
「然り。それに加え、幽世の存在である鬼と、現世の存在である人間は、世の理として交わってはならない」
「しかし、我々は人間と共にありたいのです。どうか、私たちと人間の間を、あなたに取り持ってもらえないでしょうか」
青年は答えに窮したが、鬼たちに一つの約束をさせた。
「わかった。だが、一つだけ誓え。たとえどのような理由があっても、もしお前たちが人間を一人でも殺してしまったなら、人間と交わることを諦めて幽世に帰るがいい」
「天の大御神、幽世の大御神、八百万の神々に誓いましょう。もし我々のために一人でも人間が命を落とすことがあれば、我々は人のもとを去り、幽世から二度と出ないことを」
青年は鬼と話してきたことを、村の人々に伝えた。
村人たちは戸惑いながらも、青年の言うことを信じることにした。
それ以来、鬼たちは時々村に下りてきて、村人たちの仕事を手伝うようになった。これは青年が鬼たちに提案したことであった。人間に力を貸すことで、自分たちが敵ではないと伝えるがいいだろう、と。
青年の提案が功を奏し、村人たちは少しずつ鬼たちの存在を受け入れ始めた。村人たちは鬼を怖れながらも、彼らとの共存を続けていく。一部の村人は、鬼と友人のように仲良くなった。
青年もまた鬼たちと交わるうちに、一人の鬼の娘と仲を深めていった。彼女は額に小さな角が生えていることを除けば、人間と変わらない外見をしていた。
彼女は心優しい性格で、純粋に人間を愛し、人間と共に生きたいと願っていた。鬼は人間よりも力が強く、異能の力を使うことができる。鬼の娘は、それらの能力も人間のために役立てたいと思っていた。
青年は鬼の娘に尋ねた。
「なぜお前たちは、そのように人間に寄り添おうとするのだ?」
鬼の娘は答えた。
「私たちは人間の在り方を尊きものと思っています。彼らは和を重んじ、弱き者を助け、仲間のためなら自らの命を捨てても戦う勇敢さを持ちます。人間とは異なる存在である私たちをも受け入れる寛容さがあります。このような心持ちは、鬼たちではなかなか持てないものです。私たちは人間に憧れ、ゆえに共にありたいと思うのです」
青年は娘の言葉に、眉をひそめた。
「お前は人間の善きところしか見ていない。確かに人間には、他者への慈しみ、異質の者をも受け入れる寛容さ、そして時には強き者に立ち向かう勇敢さがある。しかし同時に、醜いところも多く持つのだ。私は、いつかお前たちが人間の醜さを知り、絶望してしまうのではないかと思う」
「決してそのようなことにはなりません」と鬼の娘は断言した。
「なぜそう言い切れるのだ?」
「私は貴方様を愛しておりますゆえ。仮にどれほど人間の醜い面を見たとしても、貴方様が人間である以上、私は人間を嫌うことはないでしょう」
やがて青年は、その鬼の娘を妻とし、契りを結んだ。
彼女は青年の子を授かり、十月十日(とつきとおか)の後、双子の姉妹が生まれた。
姉は父に似ており、妹は母に似ていた。
人と鬼の間に生まれた子供たち――
それが禍いの始まりだった。
◇ ◇
双子の娘が生まれてすぐに、青年は原因不明の熱病に冒されるようになった。医者に見てもらっても一向に治る気配がない。そして彼は方術士としての知識により、病の原因が医学の領域ではないことをすぐに悟った。
これは『呪い』だ――青年はそう理解した。しかも魑魅魍魎や低級神による呪いではない。その程度ならば、彼の力をもってすれば祓うことができた。しかし、これは世界の理に関わるほどの呪いだ。
呪いの源泉もすぐにわかった。彼の娘の一人――双子の姉妹の妹が、生まれた時から青年と同じような病の症状をたびたび見せていたからだ。
青年が方術士の技を使って検(あらた)めたところ、呪われていたのは姉妹の妹であり、青年はその余波を浴びていたにすぎなかった。
青年は自らが鬼たちに言った言葉を思い出した。
『幽世の存在である鬼と、現世の存在である人間は、世の理として交わってはならない』
彼はその理に反し、鬼と交わり、子をなした。それゆえ娘の一人が世界に呪われてしまったのだ。
間もなく、青年は命を落とした。鬼そのものである彼の妻や、鬼の血を受け継いでいる娘たちに比べ、純粋な人間である彼は生命力が弱く、最も早く呪いに耐えられなくなったからだ。
青年が死んだことは、またたく間に村中に広まった。
村人たちの間で噂が吹聴され始める。
「青年は鬼たちに殺されたのではないか」
「彼の妻は鬼だった。妻に食われてしまったのではないか」
「生まれた子供たちは鬼の血を引く鬼子だ。子供たちが父親を殺したに違いない」
「やはり鬼は怖ろしい。人間が関わるべきではない」
「奴らが村の人間と親しくしているのも、俺たちを油断させて、殺す機会を伺っているに違いない」
「鬼をこの村に置いてはおけない。早く追い払わなければ……」
鬼を受け入れ始めていた村人たちは、再び鬼を怖れるようになっていった。そして、恐怖は憎しみと嫌悪へ転じていく。
鬼と親しくしていた者たちも、以前のように関わりを絶つようになった。
夫を失った母鬼とその娘たちも、やはり村人たちから忌避された。
鬼の母娘が村の中を歩けば、住人たちは冷たい目を向けた。
大声で母娘を罵倒する者もいた。
彼女たちの家の畑は村人に荒らされ、作物が取れないようにされてしまった。
そのせいで食べる物がなくなっても、村人たちは彼女たちに食糧を分け与えなかった。
彼女たちが外出している間に、家の屋根や壁が壊されていたこともある。そのため母娘は雨漏りに悩まされ、隙間風に震えた。
「これでは生活もままならない。私は死んでも構わない。しかし、愛する人との子である娘たちだけは、必ず守らなければ……」
母鬼は娘たちを連れて、山に住んでいた鬼の仲間たちに助けを求めようとした。
しかし鬼の集落があったはずの場所へ行くと、そこには誰もいなかった。鬼たちが住んでいた跡だけが残っていた。
「……ああ、私の仲間たちは、幽世へ帰ってしまったのだ」
そう母鬼は悟った。
鬼たちはかつて青年と約束をしたからだ――
『もし我々のために一人でも人間が命を落とすことがあれば、我々は人のもとを去り、幽世から二度と出ない』
――と。
だから、もう仲間の鬼たちは、現世にいることができなくなったのだ。
そうして母親と娘たちは、人間の世界に取り残されてしまった。
◇ ◇
現世(うつしよ)の存在たる人間と、幽世(かくりよ)の存在たる鬼たちは、世の理として交わってはならない。
その禁忌を破り、鬼と人間の血を半分ずつ受け継いで生まれた姉妹は、世界に嫌われた。ゆえに姉妹の妹は、体内に強い呪いを持って生まれてしまった。
その呪いの名は『死』である。
命を持ったあらゆる存在は、老いや病や事故などで命を落とす。『死』は生きとし生けるものに平等に訪れ、逃れることができる生物はいない。
一つの生命に一度だけ訪れる無慈悲にして平等な『死』を、無数に集めて凝縮したもの――それが、妹の体内に宿る『呪い』だった。
その呪いゆえに、妹は生まれた時から熱病を繰り返した。
鬼の血を半分受け継いでいたため、本来、彼女は人間よりも遙かに丈夫な体と強い生命力を持つ。しかし、呪いに冒された体は衰弱し、彼女はいつも床に伏して起き上がることさえ難しかった。
もしも鬼の生命力を持っていなければ、生まれて間もなく呪いによって絶命していただろう。
満足に動けない妹を、姉と母がいつも付きっきりで面倒を見ていた。
「はぁっ、はぁっ……苦しいです、姉様……」
「大丈夫よ、私がここにいるから。絶対に大丈夫だから……」
姉は妹が苦しんでいる時、いつも傍にいて、彼女の手を握った。姉は医者でも薬師でも方術士でもないから、妹の苦しみを取り除くことはできない。だから、妹の不安だけでも和らげようと、傍にいて手を握った。
「ご飯を用意したわ。食べられる?」
「ありがとうございます……でも、姉様はちゃんと食事を取っているんですか……? 私よりも、姉様と母様が食べてください……」
「あなたが心配することはないのよ。私たちはちゃんと食べているから。それに、あなたこそちゃんとご飯を食べて、体力をつけるべきだわ」
「姉様……」
「ごめんね、私たちにはご飯を用意することくらいしかできなくて……。あなたの苦しみを、肩代わりしてあげることができたら良いのに……」
姉は目に涙を浮かべながら、申し訳なさそうに言った。
「姉様が謝ることなんてありません……」
むしろ謝るべきは自分の方だと、妹はいつも思っていた。
彼女たちが生きていた時代は、現代と違い、食糧が常に不足し、生活していくだけでも困難を伴う時代だった。一部の裕福な者を除き、多くの家庭では子供たちも毎日働かなくてはならず、労働力とならない者には生きている資格すらない――そういう時代であった。
彼女は自分が負っている呪いと、自分自身の存在を憎んだ。
「ああ、私はいつも姉様と母様に迷惑をかけている。そのうえ、動くこともできず、こんな私に生きる意味などあるのだろうか……」
鬼の母と半鬼半人の姉妹。彼女たちの苦しみは、妹が抱える『呪い』だけではなかった。
人間の父が命を落としたことをきっかけに、彼女たちは村人から忌み嫌われた。
そのため村の中で生活することもできなくなり、彼女たちは村の外の山中に荒屋(あばらや)を立て、その中で暮らしていた。夏は暑く、雨が降れば水が屋根から滴り、冬は冷たい風が吹き込み、穏やかに暮らすことなどとてもできない家だ。獣の巣と大差ないだろう。
母娘たちは、快適さとは程遠い家の中で、寝起きをするしかなかった。
◇ ◇
またある日、姉が頭から血を流して、家に帰ってきた。
「な……何があったのですか、姉様!」
妹が心配すると、姉は強がった顔で答える。
「大丈夫よ。少し気が立った村の人に見つかってしまって……」
「……ごめんなさい……私のせいで……」
「何を言っているの、あなたのせいではないわよ」
姉は妹が気に病まないように、笑顔を作って言う。
人間たちは鬼の母娘を村から追い出しただけではなく、時々山に入っては彼女たちを捕らえて殺そうとした。『呪い』で人間の青年が死んで以降、村で起こった不幸はすべて鬼の母娘のせいにされたからだ。
村で誰かが病にかかれば、鬼の母娘が人間を呪っているのだと言われ、彼女たちを殺せば病が治ると言われた。
誰かが事故で命を落とせば、それもまた鬼の母娘がやったことだと噂された。
作物が不作になれば、鬼が毒を撒いているのだと決めつけられた。
そのため村人たちは、鬼の母娘を殺せば自分たちに降りかかるあらゆる災いが消えると考え、母娘を殺そうとしたのだった。
人間にも鬼にも頼ることができない境遇の中で、母娘たちは生きていくしかなかった。
日々は苦痛で埋め尽くされていた。
しかしそんな毎日の中でも、姉は妹を愛し続けた。いつも妹を気遣い、妹を看病し、優しい存在であり続けた。
妹はそんな姉の愛を嬉しく思う反面、苦しくもあった。姉に何も返すことができない自分を嫌悪した。
「私がいなければ……姉様と母様だけだったら……遠く離れた場所に行って生きていくこともできるのに……私のせいで……。ごめんなさい……ごめんなさい……」
妹は毎晩のように泣いた。
呪いで体が衰弱して動けない妹がいなければ、姉と母だけで別の集落へ行くこともできるだろう。そこで鬼という素性を隠して生きていくこともできるはずだ。
しかし、姉は妹の涙を拭いながら言う。
「そんなことを言わないで。あなたがどれほどあなた自身を憎んでも、私はあなたのことを好いているのよ。もしこの世界にあなたがいなければ、私はきっとこのつらく苦しい日々に耐えることができないわ」
「……姉様……」
姉の優しい言葉を聞くと、妹はもっと泣いてしまうのだった。
しかし、苦しみの日々が続けば、いつか姉の愛情も憎悪に変わってしまうのではないだろうか。それが妹には怖かった。
しばらく時が過ぎ――
母が命を落とした。
妹が抱えていた呪いの余波が父を殺したように、それは母の体をも蝕んでいたのだ。
姉は母の死体を山の中に埋めた。彼女の夫の墓は村の中にあるため、同じ場所に埋めてあげることはできなかった。
人間から疎まれ、鬼の仲間もいなくなってしまった母の死を知る者は、娘の二人だけだ。母は誰にも知られることなく、ただ苦しいだけの日々の中ですり減り、そして死んだ。
「お母様の人生は……一体なんだったんだろう……」と姉はつぶやいた。
妹は何も言えなかった。
(全部、私が悪いのです……私がいなければ……ごめんなさい……ごめんなさい、母様……)
彼女は心の中でひたすら謝り続けた。
そして姉妹は、たった二人だけになってしまった。
これからは彼女たちだけで生きていかなくてはならなくなった。
◇ ◇
母が死んだ翌日。
姉が山へ食糧を探しに行っている間に、妹は動かない体で這いながら家から出て、川に身を投げた。
死のうとしたのだ。
しかし、姉がすぐに帰ってきて、妹を助け出した。
「なぜこんなことをしたの!?」
「死なせてください、姉様……。父様と母様が死んだのは私のせいです。私がいなければ、父様が死ぬことはなかった……。そしたら、私たちが村人から忌み嫌われ、村を追い出されることもなかった。母様が死ぬこともなかった……。私がいなければ……父様も母様も姉様も、幸せに暮らせていけたんです……」
「呪いはあなたのせいではないわ。あなた自身も苦しんでいるのに……」
「今からでも私がいなければ、姉様は一人で他の村へ行き、今より良い暮らしをすることができるでしょう……」
「そんな生活なんて何の意味もない!」
姉は涙を流しながら、妹を抱きしめた。
「あなたは私のたった一人の家族なのよ! 私にはもうあなたしかいないの……私を独りにしないで……」
「姉様……」
妹は自ら命を絶つことを諦めた。彼女が自ら命を絶てば、姉は悲しむだろう。妹は、姉を悲しませたくはなかった。
(姉様、だったら私を殺してください……。私を憎んで、殺してください……。そうすれば、姉様は悲しまずに、自由の身になれます……)
妹は泣きながら、姉が自分を殺してくれることを願った。
苦しみの日々は続く。
病で衰弱して動けない妹を、姉は看病し続ける。
姉は毎日山の中へ食べられる野草や魚などを取りに行った。獣に襲われて怪我をすることも多かった。また、村人たちは相変わらず山の中へ入ってきて、姉の姿を見れば殺そうとした。
季節は移って行き、また冬がやってきた。
冬の山の中では、食べ物はさらに手に入れ難くなった。姉は一日中、山の中を歩き回って、何一つ食糧を見つけられない日もあった。そんな日は姉妹で身を寄せ合って、樹木の皮を噛みながら水を飲んだ。そうすれば、物を食べた気分になることができた。本当に腹が膨れるわけではなかったけれども。
そして呪いの余波は、姉をも蝕み始めた。
彼女も次第に体が弱っていった。今までは妹が動けない分、姉が山の中を歩き回って食糧を探していたが、それも難しくなっていく。
しかし、衰弱していく二人を助ける者は、誰もいない。
やがて、長く厳しい冬が終わりを告げる。
空気の中に春の暖かさが宿り始め、山中に新たな生命が芽吹き始めた。
しかし、既に姉も妹もまったく動くことができなくなってしまっていた。
蓄えてある食糧もない。
あとはもう、飢えて死ぬのが先か、呪いに殺されるのが先か。
ボロボロの家の中で、二人で命が尽きる時を待つだけだ――妹はそう思った。
けれど。
「……が……なければ……」
姉は弱った体を必死に動かし、横たわっている妹に馬乗りになった。
「……許……せない……」
彼女は怖ろしい形相で妹を見下ろしていた。言葉は虚ろだったが、姉の表情には怒りと憎悪が宿っていた。
ギョロついた目で睨みつけてくる姉に対し、今にも殺されそうになっている妹は――
微笑んだ。
どんなに愛情を持っていても、苦痛の日々が続けば、その愛情が憎悪に変わるのは仕方ないことだ。
(ああ、やっと姉様は私を憎んでくださった……。私を殺してくださるんだ……)
妹はホッとした。
肩の荷が下りたような気がした。
「ありがとう……ございます……姉様……今までずっと……迷惑をかけて……ごめんなさい……。姉様は……姉様だけは……幸せに……生きて――」
姉は手を振り下ろし、妹の胸を貫いた。そして心臓を抉り取った。
◇ ◇
数分後か、数時間後か、あるいは数日後か――
妹は荒屋の布団の上で目を覚ました。
「私……心臓を抉られて死んだはずなのに……なんで生きている……?」
不思議に思っていると、さらに彼女は自分の異変に気づいた。
手を動かすことができる。
足も動く。
そして、彼女は立ち上がることができた。
今までは衰弱して全身にまったく力が入らず、指先さえ動かすことが困難だったのに。生まれてからずっとつきまとっていた体の倦怠感はなくなり、体が軽い。
「呪いが……消えた……? 姉様! 姉様!!」
妹は姉の姿を探した。呪いが消えたのだとしたら、姉も回復しているはずだ。
この体が自由に動くようになったのなら、もう今までのような苦しい生活をする必要はない。すぐにでも二人で遠くの村なり町なりへ行き、もっとまともな生活をすることができるだろう。鬼の血を半分受け継いでいるため、姉妹は人間よりも遙かに身体能力が高い。
その肉体的な有利さがあれば、どこへ行っても生きていくことができるはずだ。姉妹で手を取り合って生きていけば、きっと幸せになれるはずだ。
苦しみの時間は終わった。
これからは姉妹で幸せに生きていけるはずだ。
しかし――
妹は、自分のすぐ傍で、姉が倒れていることに気がついた。
「姉……様……?」
彼女は姉の胸に耳を当てた。
心臓が動いていなかった。
「どうして……」
姉は死んでいた。
妹は知らなかったのだが、鬼は相手を殺すことで、相手の呪いを奪うことができるのである。
姉は妹を殺そうとし、誤ってその呪いを奪ってしまい、そして死んだ。
身を寄せ合って生きてきた姉妹だったが、結局最後には、姉は妹を殺そうとし、妹は姉に呪いを押しつけて殺してしまった。姉妹はお互いを愛していながら、最期の最期で殺し合ったのだった。
妹は愛する姉の亡骸を抱きながら、いつまでもいつまでも泣き続けた。
彼女は家族をすべて失い、一人ぼっちになってしまった。
その後、妹はどこへ行き、どうやって生きたのか、あるいは死んだのか。
行方を知る者は誰もいない。
それ以来、村では数十年に一度、鬼の姉妹と同じように『呪い』を宿した姉妹が生まれるようになった。呪いは姉か妹のどちらかの体に宿り、姉妹の片方の命を奪った。
鬼の姉妹を苦しめた呪いは、長い時を経てもその地に留まり続け、村で生まれる姉妹の命を奪い続けているのである。
◇ ◇
「その村はね、『鬼が囲む村』『鬼を見ることができる村』として、『見鬼囲(みきこい)村』と呼ばれていたそうよ。今、私たちが住んでいる美癸恋(みきこい)町のことね」
そう言って母は、この町に伝わるお伽噺を語り終えた。
つきねはうとうとしており、もう母が語る話をほとんど聞いていないようだった。
ここねの方はというと、母の話を聞き終えて、泣き出してしまった。
「ごめんごめん、泣かないで! 怖い話をしてごめんね、ここね!」
慌てて母はここねを慰めた。
「ぐすっ、うう……ちがうの……。こわくてないてるわけじゃないの……」
ここねは声を震わせながら言った。
「じゃあ、どうして泣いてるの?」
「うぅ……わかんない……でも、イヤだよぉ……ぐすっ……」
ここねにも、自分がどうして泣いているのかわからなかった。
ただ、鬼の姉妹の最期が、どうしようもなく悲しかったのだ。
ここねは涙を浮かべながら、愛する妹を強く抱きしめる。
「わたしはなにがあっても、つきねをまもるからね……ひとりにしたりしないから……」
つきねはここねに抱きしめられながら、きょとんとしていた。彼女はまだ幼かったから、お伽噺の意味も、姉が泣いている理由も、まったくわかっていなかっただろう。
けれど、泣いている姉を少しでも慰めたいと思ったのか、つきねはここねの頭を撫でながら言った。
「なかないで。つきねもおねーちゃんと、いっしょにいるから」
◇ ◇
『月ノ心ニ音、累ナル。』
幕間「千歳のあなたに」
了
◇ ◇